昭和40年05月16日 夜の御理解
何時でもどこででも、神様が見ておって下さるんだ、聞いておって下さるんだと、もうそりゃ何時でもどこでも自分の側にというより、むしろ本当いうたら自分の中身に働いておって下さるという事を、それが実感として頂けるようにならなければ、本当の実意丁寧神信心は出来ないと思うのですね。神様が側でいつも見ておって下さるんだ、聞いておって下さるんだとそういう実感が頂けるから、いわば、何をするにも信心にならなければおられんのである。ね。
何をするにもそこに神さまが見てござる。聞いてござる。そこに初めて実意丁寧神信心が出来る。そこでそんなら私共が神様が側で働いて下さって、理屈の上では分かってもです、実感としてはなかなか頂けないところにです、いよいよ私達が勤めに努めさせて頂いてです、この実意丁寧神信心にならなければいけないという事。実意丁寧神信心にならせて頂くとです、そこに今度は成る程、神様が成程神様が側におって下さるんだなあ、見ておって下さるんだなあという体験が生まれてくる。
私はお道の信心をさせて頂いたら、そうした生々とした神様がです、自分の周囲にですもう、そういう働きがあっておるという事を実感しなかったら、本当の有難い勿体無い生活は出来ないと、有難い勿体無いと口では言っておってもそれを実感していなかったら、それは空念仏の様なもの。それを一つですから本気で教えを行じて、どの教えを行じさせて頂いても実意丁寧にならなければおられない。私共の心の中から、ね。
わがままな心大着な心、そう言う様な心を取り除く事に一生懸命に努めさせて頂くのである。そこにです生きた神様を見ることが出来るのであり、生きた神様の声を聞くことが出来る、それが体験成程神様がそこにおって下さるんだなあという事を分からせてもらう。今日は、伊万里の竹内先生ところで、まあ、どういう事私はあちらに参らせて頂く時に神様から「出張」ということを頂いたのですけれども。
出張という事は神様が出番なさるという事ですね、私が出張っていくという事。いわば神様のひれいが伊万里に移るという事だと私は思ったのです。どうぞ一つ来年あたりはここで、神愛会の支部であるところの、直美会を持ってです本当にあの、御大祭と言う様な名の元にお祭りが奉仕させて頂いて、私も装束を持って先生方もみんなおかげを頂けれるような一つおかげにならなきゃならんとこう思うたのです。
今度は、私だから御祈念の形式をとらせて頂いてから、まあお祭り、それから御霊様への御挨拶をさせて頂きました。二十幾名の方達が、一生懸命奉仕しておられるですね、まあ私があそこに着かせて頂いたといったらもう、整列してから迎えてくださるです。もう本当にありがたいなあとこう思うんです。私はもう本当にいつもの事ながら、有難いんですけれども、今度はあの、お神様が、大きなお宮が、霊璽様がその横に下っかわの台が置いてございます。
その上に今度は紅白の座布団がこの位に作ってあるんですね、そういうお写真が、私は金光様のお写真とばかり思うておったんです。よく見たら私の写真ですもん。してもうその、おばちゃんいいはなさいましたもんね。もう先生のお好きなものがあったらすぐお供えさせてもらう。もう毎日お茶だけはかかした事はないというてその、そこでまあ椛目でお取次ぎを頂く気持ちでなさっておられる。いわゆるその神様、神様ではない親先生をいつも身近に感じておられるわけなんですね。
そりゃ私の写真を拝みござるけんありがたかというのじゃないけれども、その心がけが素晴らしいと思うのです。私のごと、そげん拝まれるがとあるものじゃないですけれども、私を通して働いておられる神様を拝まれるんだと私は思うですね。私はあの、いわゆる神様を身近に感じるということはです、あの、沢山お供えをしてございましたけれども、その中に、お神酒に「東の長」、「東の長」と書いてある。
あちらのお神酒が一本お供えになっておりましたが。あそこに出らせて頂きましてから、あの、今日は椛目の御ひれいがここにつられて、ただ今からこちらにつかせて頂いて御祈念をさせて頂きますとご挨拶申しあげたらですね、東の長と書いてあるそれにカチッとおいさみがつくんですね。これは、あちらから椛目の東になるでしょ、だから神愛会の長だという意味でしょうね。
東の長、私が着ておるという事かです、身近に感じさせて下さる。まあ御祈念がすんでご理解を頂いて、それから次々、幾人もの方達のお取次ぎをさせて頂いたのですけれども、御取次ぎをさせて頂くとですね、自分の周囲の一切の中からです、御理解下さるのです。成る程、してみると神様が神様側にござることが分かろうがというてみんなに、私ここで話したことでした。
ある、私がここに座っておるところのお縁の所に、小野田セメントのセメントがこう、あの、お縁の向こうにつんでございました。それにですね、私の「セメ」という所だけが見えるんですね、私が座っておるところから、その方はある難儀な問題をもっておられる、今、現在難儀をしておられるわけです。それでも熱心に毎日毎日そのあちらにお参りをされては、椛目の御理解を頂くのを楽しみに。
まあおかげを頂いておられる方なんですよ。そしたら神様がですセメントのセメンというところを頂かれてから、せめとこう所を頂くんですね。はあいま神様から責められてござるところ。だから難儀なんだという事です。ね、いうならば今こそ神様がおかげを下さろうとして、めぐりの御とり祓いをくださっておる時だと私は思うたのですね。いわば本当にどうしてこんなに、信心したって難儀が続くだろうかという時にはね、必ずいうなら神様が借金取りに来てくださりよる時ですよ。
それがいわゆる責められておるようなもの。そしたらですね、その次のこの責めを反対にですね、こう反対に頂きますから「メセ」ということになるでしょうが、ね、あのお花はめしませとか、ね、酒をめせとけとかいうでしょう、私共がですね、例えば様々な難儀をそれをめぐりの御とり祓いと教祖は「やれ痛や今、みかげをという心になれよ」と、どういう難儀を感じてもです、今こそめぐりの御とり払いを頂いているときであり、有り難い心になれよとこう仰っておられる。ね、
そこの所を井戸は清水になるまでとおっしゃる。いくらお掃除をしてもお掃除をしても、いくらお参りしてもお参りしても、きれいな水がでてこない。それは丁度井戸替えをするようなものじゃと仰る。だから井戸替えが済んでしまったときにです、懇々と尽きぬおかげが、尽きぬお恵みの水が湧き上がってくるようなものじゃと。ここんところを通り抜かせて頂きなさい、しかも、神様を身近に感じさせて頂きながらです。
だから苦しい苦しいけれども有り難いではないですかと、有り難いという実感を頂かせてもろうて、信心の稽古をさせて頂ければです。神様のほうがですね、どうぞ今度は反対にです、いわゆる責めですから召せ、どういうお蔭をみせてどういうおかげを頂いてくれよと、どうぞ、おかげを頂いてくれよと、神様のほうがおかげを頂いてくれよとその地を低くしておかげを下さるようになりますよと、もうその人はもう感激してからですね、ここを立ち上がってから向こうのほうで泣いておられました。
本当にねそうと思うておるのだけれども、ね、やっぱり苦しい事は苦しいと。今日でも、神様そういう神様のご神意があったのですかと、その感激しておられるわけなんです。ね、実際はそうなのですから。まだ色々私の周囲から、私はご理解を頂いたのですけれども。そう言う様な事からでもいかに神様がですね、ここに働いておられるかというのが分かるでしょうが。ね。
神様が身近に働いてござるのだけれども、こちらが不徳の為分からんだけ。それをもう神様は椛目だけしかござらんと思うてからわがまま、横着をしておる所にいつまで経っても神様を身近に頂けないのですよ。何事にも信心になれよと。神様がみてござろうと見てござるまいが、自分が分からないけれどもです、神様がここにござるのだと。聞いてござるのだ見てござるのだと、という思いをもって何事も信心にならせて貰う。
何事にも実意丁寧にならせてもらうということ、そこに成る程神様がこんなに身近に働いておって下さっておるんだ、私の中身に働いて下さっておるんだなあという実感が頂けるようになって、初めて有難いという生活が出来るのです。おかげを頂きましてから自動車に乗っておろうが、どこに座っておろうがどこにたっておろうが、どこで仕事をさせて頂こうが、神様の徳の中にあるのですから、それを本当に心の上に感じれる様な所まで、信心が進められたら楽しゅう実意丁寧神信心が出来ると私は思いますね。
その、実意丁寧神信心というものが、分からない。始めの間は分かりませんけれども、実意丁寧神信心をさせて頂いておると、成程神さまはこのように身近に私の思うておることを、見ておって下さるんだ聞いておってくださるんだ、と言ったような事が実感として分かって来るようになる。伝わってくるようになるんです。ね、伝わってくる、それが分かるようになると、いよいよ、実意丁寧にならなければおられない。
そこに本当の信心生活、喜びの生活、いわゆる神様が、それこそ神さまのほうからおかげを召せますと、私共におかげを頼まんでも願わんでも、いわば降るように、それは尽きぬお水が下からコンコンと湧き上がるように、おかげを送って下さるようなおかげを、頂けるいわば道を私共日々稽古しておるのであり、そういう道を私共はたどらせて頂けなければならない。今日の伊万里の御理解の中にです、どんなに光の道だと。
「南に連なる耳納山、北を流れる筑後川、中にひときははっきりと、光り輝く道がある」と、椛目のこと。いかに光輝く道がありましてもです。本人の心の中に光がなかったら、光の道を光の道としてあらわす事が出来ません。心の中が真っ暗であったら光の道が分かりません。そうでしょうが。ね。実意丁寧神信心をさせて頂いて、自分の心の中に光を頂く。そこに、光り輝く道を光輝く道をして、現していくことも、そこを辿らせて頂くことも出来るわけなんですね。
おかげを頂かなければいけません。